フォト

« 司法修習生の就職状況 | トップページ | 日弁連中小企業法律支援センター構想 »

2009年9月24日 (木)

東京新聞<記者だより>裁判員裁判

東京新聞<記者だより>裁判員裁判                        2009年9月21日 
 各地で始まった裁判員裁判。「裁判官が独占する裁判を国民の手に取り戻す」がウリだ。法曹、学者、ジャーナリストは「裁判の民主化」と、口々に賛辞を贈る。でも、問いたい。刑事裁判を、行政の官僚主導と同じ文脈で語ってよいのか、本当に裁判は民主的であるべきなのか。従来の裁判は、多数意見が優先される民主主義でなく、自由主義的であるがゆえに「あいつはクロ(シロ)」という世論の大合唱を無視して無罪(有罪)判決を出せる。国民が裁判権を握るべきは、刑事裁判でなく、行政責任を問う裁判の方だ。国民の反対を押し切って裁判員制度を始めたことは反民主的。ところが、裁判員制度絶賛派は「民主的制度を反民主的に」強制した矛盾について口を閉ざしたままだ。「知的な私たちが民主的にしてあげた」とのおごりが、万に一つもないと言い切れるか。裁判員制度見直し派が少なくない民主党政権に期待したい。(市川隆太)

  新聞がここまで正面から裁判員裁判に反対する記事を書くのは珍しい。記者もよく書いたと思うが、むしろそれを許したデスクの度量を褒めるべきか。裁判員裁判導入以来毎日のように新聞は報道しているが、どれも事実の報道と裁判員裁判がうまくいっているかどうかの簡単なコメントの域を超えていない。たしかに評価を下すには時期尚早なのであろうが、半年もたつとニュースバリューも薄れ結局できたものは仕方がないで終わってしまうのではなかろうか。
 河北新報は青森の強盗強姦事件について、性犯罪は裁判員制度になじまないから3年後の見直しの時期には適用除外とすべきとの記事を載せていた。まっとうな意見だと思うが、裁判員の苦悩や被害者保護の必要性を言うなら性犯罪に限ったことではあるまい。
 この事件は被告人が犯行を認めているのであるから、従来の裁判であれば被害者が公の場に出る必要は全くなかった。私も何度も性犯罪の事件の弁護を担当したが、被害者の尋問をしたことなど一度もない(少し前までは被害者の意見陳述という制度はなかった)。今回も果たして被害者の意見陳述が必要だったのだろうか。被害者の調書を弁護人が不同意にしたというならともかく、そうでないなら裁判員が調書を読めばよいことでなにもビデオリンクまで使って喋らせる必要などない(裁判員裁判であっても調書を証拠として採用することは当然できるし、法廷での調書の朗読は要旨で足りるので詳細な犯行状況の朗読は不要である)。調書が採用されてそれでもなお被害者が特に意見陳述を希望するならそれは自らの意思であるから被害者が精神的苦痛を受けるとしても致し方ない。しかし本件で本当に被害者が自らの意思で意見陳述を希望したのだろうか。
 また報道によれば犯行再現の生々しい写真を見せられたというがどんな写真なのだろう。私の経験では犯行再現写真はスーツ姿の男性が被害者役で、しかも断片的なもので生々しいものではなかった。今はいったいどんな再現写真を撮っているのだろうか。そもそも再現写真は実況見分の補助手段であってそれ自体が証拠になるものではなく、生々しいものである必要はない。被害者の意見陳述も、生々しい再現写真も、詳細な犯行状況の朗読も、全ては検察が求刑通りの判決を得るための裁判員向けのパフォーマンスだったのではないか。国民の良識を量刑に反映させることと、その場の感情で量刑を左右させることは同じではない。重罰に処すことだけが被害者保護だというならこのような立証のやり方も正当化されるのかもしれないが、そのために今後裁判員は凄惨な遺体の写真や犯行再現写真を強制的に見せられ続けるのだろうか。それほど多いわけではないが、それでも目を背けたくなるような、耳を塞ぎたくなるような凄惨な犯罪、醜い犯罪はある。裁判官、検察官、弁護士はそれが職責であるから我慢するしかないが、国民全員にそれを強いる必要性がどこにあるのだろうか。
 否認事件の事実認定に国民の常識的判断を生かすというなら話は分かる。ただその場合も国民には裁判員への選任を拒否する自由を与えるべきだし(その反面十分な審理を行うに必要な時間的拘束は課せられる)、被告人にも選択権が与えられなければならない。またアメリカの陪審制同様量刑に関与させるべきではない。しかし犯罪事実を認めている事件に裁判員を関与させることにどのような意味があるのか全く理解できない。
 裁判員・被害者の負担の問題や選択権の問題はしばらくおくとして、やはり裁判員制度の是非は、この記者が言うように刑事裁判の本質は民主主義なのか自由主義なのかという根源的な視点から語られるべきものであろう。その上でなおやるというならそれはそれで一つの選択かもしれない。しかし、「統治の客体から統治の主体へ」そのための「国民の司法参加」などという、全くわけの分からない空疎な理屈で推し進めることは誤りだ。できたものは仕方がないではなく、もう一度真剣な議論がなされるべきだし、マスコミもそのための報道をすべきだろう。記者は評論家になってはならないと言われているしそれはある意味そのとおりだが、論説委員ではない現場の記者が、取材した事実に基づいた一定の意見表明をすることはもっとあってよいように思う。

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ
にほんブログ村

« 司法修習生の就職状況 | トップページ | 日弁連中小企業法律支援センター構想 »

裁判員制度」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/522409/31496801

この記事へのトラックバック一覧です: 東京新聞<記者だより>裁判員裁判:

« 司法修習生の就職状況 | トップページ | 日弁連中小企業法律支援センター構想 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ
2016年8月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31