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2012年3月の4件の記事

2012年3月19日 (月)

氷河期に突入した医療過誤訴訟その4 裁判所の鑑定一本主義

  医療過誤訴訟における鑑定書は絶大な証拠価値を持っている。それだけにひとたび誤った鑑定がなされるとそれを覆すのは不可能に近い。しかし本当に鑑定書はそんなに証拠価値の高いものなのだろうか。
  医療過誤訴訟にあっては双方から私的鑑定書が出され、さらに正式鑑定がなされる場合がある。その場合皆の意見が一致するかと言えばとんでもない。鑑定人1人だけ意見が違う場合もあれば三者三様という場合もある。
  カンファレンスの場合はきちんと検査データなどが揃っているので細部の違いはあっても概ね医師の意見は一致することが多いだろう。しかし医療過誤訴訟では往々にして前提事実が不足している。情報が少ない中で意見を言おうとすると結論のぶれも大きくなる。これに加えてバイアスの問題がある。医療機関から依頼されて私的鑑定書を作る場合はどうしたって医師を擁護しがちだ。そうでなければそもそもそんな私的鑑定書は出さないだろうが。正式鑑定でも庇い合いの傾向は見られる。だから医療過誤訴訟では専門家であっても意見が相違することになる。
  そういう中で裁判所は正式鑑定の結論だけを信頼するのが通常だ。裁判所が選任したことに対する信頼なのか分からないが無条件に尊重しているようにも思われる。しかし正式鑑定といったところで所詮は1人の医師の見解に過ぎない。教科書の記載とは信頼性のレベルが違う。よく裁判官は文献だけでは心証が取れないと言うが、版を重ねた教科書的文献や学会の作成したガイドラインは当該疾患についての一般の医師の共通認識を示したものであってそれを超える医学的知見など得られるはずはないのである。実際は医学的知見が欲しいのではなく、医学的知見を本件に当て嵌めた評価が知りたいのであろう。そしてそのとおりに判決を書いておけば安心できるから鑑定にこだわるのだろう。しかしそのような評価は本来裁判官が判断すべきなのであって鑑定人に委ねる事柄ではない。 どうしても心証が取れないと言うなら、
私的鑑定書が双方から提出されている場合には私的鑑定人の対質尋問で心証を採ればよいのであって敢えて正式鑑定をする必要はない。
  だから私はこのままでは敗訴だろうなと思う場合以外は鑑定申請はしないようにしている。下手に鑑定をやって不利な結論を出されようものならリカバリーはほぼ不可能である。そんな博打のようなことは怖くてできない。
  医療集中部のある仙台地裁では鑑定の実施件数は少ない。しかし、それ以外の地裁では今でも鑑定重視の姿勢に変わりはない。ある裁判所などは医師の尋問はやらないと言った。事実経過はカルテがあるし尋問でカルテに書いてないことを言われると困るからというのである。後はカルテを基に鑑定をやってそのとおりに判決を書けばよいと考えていたらしい。その裁判長は途中で転勤になって結局医師の尋問は行われたが。ここまで極端ではないにしろ、医療過誤訴訟ではまだまだ鑑定一本主義の裁判所は多いようだ。
  仙台地裁では医療集中部ができる前から鑑定の実施率は低かった。優秀な裁判長が多かったからだと思う。自分の能力に自信のある裁判官は、被告医療機関に対して「専門家である以上自分が行った診療行為の正当性について裁判所を納得させる説明ができるはずだ。それができない以上責任を問われても仕方ない。まして反対尋問で立ち往生するようでは」という感覚を持っていたように思う。裁判所がきちんと争点を整理し、双方から主張の裏付けとなる適切な医学文献を提出させ、裁判所自身が医学的知見を得た上で、医師の尋問で心証を採るというのがあるべき医療過誤訴訟であり、医療集中部を作った目的のはずだ。
  鑑定一本主義はある意味原告代理人にとっても楽ちんこの上ない。今の裁判所は専門委員制度の活用も積極的なようだから、適当に提訴して専門委員に争点整理してもらって、鑑定やって、運良く有利な結論が出ればそれで勝てるわけだ。自分で医学文献を調べたり、苦労して反対尋問したり、準備書面を書かなくとも医療過誤訴訟はやれる。実際そういう弁護士もいるようだ。鑑定一本主義の裁判所に当たると結局どちらの方法をとっても結論は同じになるので、それなら患者側の代理人も手抜きの鑑定一本主義で何ら問題ないことになる。

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氷河期に突入した医療過誤訴訟その3 裁判所が医療過誤訴訟だけに過酷なほど高い証明を要求するのは何故なのだろう

  訴訟上の因果関係の立証についてルンバ-ル最高裁判決は「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、事実と結果との間に高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」とする。この判例があるために因果関係の証明は「高度の蓋然性」の証明だとされている。
  しかし因果関係に限らず訴訟上の要証事実の証明については「裁判官が確からしいとの確信を得た状態を証明と言い、それは自然科学者の実験に基づく証明のように反証の余地のないほどである必要はなく、一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性があれば確信を得たと言える」とされている。あらゆる事実認定は「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性」があれば足りるのであって因果関係の証明だけが特別なわけではない。ただ因果関係の場合は単なる「事実」ではなく「事実と結果との関係性」が証明の対象であるために「事実と結果との間の高度の蓋然性」という言葉が用いられているだけと理解すべきだろう。私にはこの「高度の蓋然性」という言葉が「その判定は」以下の判旨と切り離されて一人歩きしているように感じられてならない。
  そして一般には「高度の蓋然性」があると認められるに足りる心証の程度は少なくとも80%以上であると確信することが必要と言われている。この点についても非常に疑問を持っている。そもそも心証の程度をこのように数量化することは可能なのだろうか。例えば夫の不貞の事実が要証事実の場合、①不貞の相手が不貞の事実を認めた録音テープがある場合、②女性と肩を組んでいる写真1枚と妻がもらった記憶のない指輪の領収書がある場合、③理由のはっきりしない外泊が数回あり、車の助手席に女性を乗せていたという目撃証言がある場合(他の証拠はないと仮定して)、それぞれ心証の程度は何%になるのだろうか。私は心証の程度を数値化することなど不可能だと思っている。
  ところがここでも80%という数字が一人歩きして、医療過誤訴訟にあっては統計上のある治療行為の効果の程度(例えば癌の5年生存率)がダイレクトに心証の程度に反映されなくてはならないような錯覚に陥ってしまっている。
  そもそも数値化できるほどの統計上のデータがある検査や治療行為などはごく一部に過ぎず、まして多施設における大規模なダブルブラインドテストに基づくデータなどは極めて限られる。しかもそれですら患者の個別事情を捨象したものだ。例えば70歳以上の肺炎患者が適切な抗生剤治療を受けないままに死亡した場合、適切な抗生剤治療が行われていれば80%以上の確率で救命できたことのデータを出せなければ因果関係は否定されるのだろうか。肺炎という極めてありふれた疾患で、抗生剤というこれまた極めてありふれた治療においてすら統計数字など存在しないのである。「70歳以上の高齢者の場合は誤嚥性肺炎が多く、その場合適切な時期に適切な抗生剤を投与したとしても救命が難しい場合は少なくない」というのが大方の内科臨床医の共通認識であろう。80%以上の確率で救命できたでしょうかと尋ねれば「そんなことはやってみなければ分かりません」というのが正解のはずだ。やってみなければ分からない場合に全て因果関係を否定するなら不作為型医療過誤で因果関係が肯定されることはほとんどなくなるだろう(現に無くなりつつあるのだが)。
  癌の5年生存率は一応のデータが出されているが、それでも癌の型、腫瘍径、腫瘍の数、リンパ節転移の有無・範囲、多臓器への転移の有無・範囲、患者の基礎疾患の有無・程度といった情報が確定できていれば当て嵌めうるというものに過ぎない。しかし実際の癌の見落としのケースでは検査すべき時期に検査が行われていないので過失とされる時点でのそのようなデータが存在しないケースがほとんどである。例えば乳癌の場合、腫瘍径とリンパ節転移の個数が予後を左右することになるが、過失時点での画像がなければ予後は確定不能、従って因果関係の立証はされていないので敗訴ということになる。その時点で画像検査をしなかったことが過失なのに、画像がないから因果関係の証明不能=敗訴では不条理にもほどがある。
  「高度の蓋然性」という言葉が80%などという心証の程度と結びつけられて一人歩きしている現状では、よほどの幸運に恵まれない限り因果関係の証明に成功することはないように思われる。
  セクハラ訴訟や離婚訴訟では本人の供述だけでも裁判所は「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性がある」と判断して事実認定をする。一般事件では本人の供述や「敢えて不利な契約を結ぶはずがない」といった経験則を当て嵌めただけのラフな事実認定がまかり通っている。それが悪いと言っているのではない。類型的に証明資料自体が乏しい訴訟にあってはむしろ必要なことだ。適切な検査が行われて検査データが存在し、患者の病態がきちんと把握されている場合にはそもそも医療過誤など起きない。杜撰な診療しかなされていない場合に医療過誤が起きるのであって、その場合には当然因果関係の証明資料は極めて不完全なものになる。その場合80%の救命可能性を医学的に証明することなど不可能である。ことに不作為の因果関係の場合には事実的因果関係とされるものは、実は歴史的事実の証明ではなく将来予測に過ぎないのであるから本来的に厳密さを求めうべくもないのである。
  医療過誤訴訟にあっては、具体的な状況の下で、臨床医学上有効性が認められている治療方法が存在する場合には、その治療が有効性を持たなかったことについての特段の事情が認められない限り、「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性がある」と判断するべきである。これは証明負担の軽減でもなければ因果関係の推定でもない。そういうことを言うとわけ知り顔の学者や裁判官の反感を買うからそんな特別なことを言う必要はない。本来これがあるべき因果関係の認定である。実際最高裁を含めた判例を見てみると、特段統計資料や救命率に言及しないでいくつかの救命し得た事情を指摘するだけであっさり因果関係を認めているものは数多く存在する。一般事件で一つ一つの要証事実について80%の真実性に達しているかどうかを意識しながら事実認定をする裁判官などいないだろう。医療過誤訴訟でも同じことで、裁判所が「80%の救命率の証明」などという本来要求されてもいないドグマに拘泥しなければよいだけの話だ。
  裁判官は請求棄却の判決を書く前に、自分が弁護士だったらどんな立証をするだろう、そもそも本件で立証手段を入手する方法があるのだろうか、ないとしたらそれは誰のせいなのかを考えて欲しい。判決前に、法は不可能を強いないという格言を今一度思い起こして欲しい。

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2012年3月18日 (日)

氷河期に突入した医療過誤訴訟その2 「生存していた相当程度の可能性の侵害論」は麻薬のように医療過誤訴訟を蝕んでいる

  最判平成12年9月22日判決(心筋梗塞事件判決)は、「過失と患者の死亡との間の因果関係は証明されないが、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は患者に対し不法行為による損害を賠償する責任を負う」と判示した。この判決は「生存していた相当程度の可能性」を新たな法益と認めたものである。
  因果関係は存在するかしないか、すなわち100かゼロかであってどれだけ酷い過失があろうとも因果関係なしと判断されれば請求は棄却されていた。この判決は、因果関係の立証の困難を実質的に軽減する機能を営むものとして患者側代理人から高く評価されてきた。私もこの最高裁判決が出された直後に、仙台地裁で、羊水塞栓で母体死亡に至った事案において因果関係は認められないが救命し得た相当程度の可能性があるとして850万円の慰謝料を認める判決を得た。これでようやく長年患者側を苦しめてきた因果関係の証明の負担が実質的に緩和されると喜んだものだ。しかしその後の下級審の流れは最高裁の意図と裏腹に最悪の結果をもたらしているように思われる。
  すなわち、かつては(期待権侵害を別にすると)因果関係はあるかないかの二者択一で否定すれば即請求棄却につながった。それだけに過失はあるが因果関係の判断が微妙な事案では裁判所もかなり苦慮していたと思う。良心的な裁判官であればそのような事案で請求棄却の判決を書くのは忍びなく、極力和解による解決を志向していたように思う。和解の進め方にしても、過失ありとの心証を得た場合には、基本的には因果関係が認められることを前提とした金額をベースに因果関係についての心証の程度に応じて減額していく場合が多かったと思う。例えば請求金額が3000万円であれば1000~2000万円の範囲で和解が成立していたというのが私の感覚だ。また和解がまとまらなければ全額認容か請求棄却かの選択肢しかないので双方に対してかなり強く説得する傾向にあったように思う。
  ところがこの平成12年判決後は、因果関係の存否についての厳密な認定を避ける裁判所が多くなったように感じている。因果関係を否定しても請求棄却としなければならないわけではなく、相当程度の可能性を肯定して一部認容判決を書けばよいとの安易な思考?が裁判所に蔓延しているように思えてならない。もちろん裁判官はそんな考えは持っていないと言うだろうが、裁判官はどうしても専門家である医療機関側の主張に反する認定はためらわれるものだ。因果関係の認定に悩んだ場合、「相当程度の可能性論」という言わば当たり障りのない中間的な解決に流れるのは人間の心理というものだろう。患者側代理人ですら「最低限相当程度の可能性が認められればまあいいか」という気持ちになる場合もあるのだから。
  またこの判決以後、和解の水準低下も著しい。かつては過失が肯定されかつ因果関係の存否が微妙という事案のほとんどは請求金額をベースにその何割という形で話が進められた。ところがこの判決以後は「相当程度の可能性」にとどまることを前提とした金額が示されることがほとんどになってしまった。しかもその金額は判で押したように300万円という数字だ。最近はさらに下がって100~200万円を提示されることもある。相当程度の可能性論による慰謝料の水準はかつての期待権侵害論と全く同じ水準になってしまっている。
  しかし最高裁が「生存していた相当程度の可能性」を新たな法益として認めた論拠は、「けだし生命を維持することは人にとって最も基本的な利益であって、右の可能性は法によって保護されるべき法益であり、医師が過失により医療水準にかなった医療を行わないことによって患者の法益が侵害されたものということができるからである」というものであって、単に適切な治療行為を受ける期待を問題にしたものではない。事実その後の判例で最高裁はいわゆる「期待権侵害論」を否定した。最高裁はこの法益を「国民の生存権に基礎を置く権利」と位置づけているのである。それがいつの間にか下級審では「生存についての期待権」と曲解されるようになっているように思われる。
  もし相当程度の可能性論がなければ、裁判官は今でももっと真剣に因果関係の存否について悩むだろう。良心的な裁判官であれば、過失はあれども因果関係の証明がないから全面請求棄却という判決はなかなか書けないだろう。相当程度の可能性論は、①裁判所から因果関係についての厳密な考察の動機付けを奪う、②弁護士や裁判官から因果関係の立証軽減の工夫をしようという動機付けを奪う、③和解水準の著しい低下をもたらす、④低額の認容判決や低額和解が多くなると医療機関は訴訟を選択するから訴訟前の示談による解決を困難にする、等の弊害をもたらしている。相当程度の可能性論は今となっては医療過誤訴訟を蝕む麻薬のような理論だと思っている。
  先日ある地裁で請求棄却判決を受けた事件で、私は敢えて最終準備書面で「相当程度の可能性侵害による慰謝料請求はしない」と明示した。和解すら試みない以上おそらく裁判所は相当程度の可能性侵害で低額の一部認容判決をするつもりだろうと考えたからだ。因果関係について条理にかなった判断をして欲しくて敢えてそのような方法をとったのであるが残念ながら請求棄却されてしまった。年末には仙台高裁で肝硬変患者の経過観察中一度も肝癌の検査を行わなかったという事案で、相当程度の可能性侵害を認めながら慰謝料100万円の判決を受けた。秋田高裁では血圧が60に低下し乏尿になってもショック治療を行わなかった事案で、過失すら認められずに敗訴した。医療過誤訴訟は氷河期を迎えたように感じている。
  過失があっても100~200万円しか得られないとなれば誰も死亡事故で医療過誤訴訟などやろうとはしないだろう。この傾向が続けば医療過誤訴訟は成り立たず、患者の救済の途が閉ざされてしまう。

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2012年3月13日 (火)

氷河期に突入した医療過誤訴訟その1 過失あれども責任なし

  今日山形地裁で医療過誤事件の判決があった。母児間輸血症候群で出生後脳性麻痺となった事案である。平成19年の提訴なので丸5年かかった。
  判決は「被告は臨床実務上の判断としてNST記録に基づき急速遂娩を決定するのは困難であったと主張するが、具体的に上記の時点においてどのような検討考慮をした上で困難であると判断したかについては何らの主張もしない。証拠によると原告母に対して本件NST3を行った看護師は、その所見として何度も刺激するが一過性頻脈がなく、子宮収縮は2回あり、1回は心拍数が130まで下がって遅発一過性徐脈様の波形が見られ、基線細変動はあるが、胎動は午前中より全くないと看護記録に記載し、自宅で待機しているO医師に同日午後9時頃電話で報告したこと、これに対し、O医師は、その際遅発一過性徐脈があるとは聞いていないという記憶であり、看護師に本件NST2と比較してどうかと尋ね、看護師が同じようですと答えたのに対し、準夜勤の時間帯にもう一度NSTをとって朝相談して決めましょうと述べ、急に状態が悪くなった時に備えて念のため帝王切開ができるよう原告母に禁飲食と伝えるよう指示したが、実際に被告病院に赴き本件NST3の所見を確認することも原告母を診察することもしなかったことが認められる。NST記録からnon-reactiveと判定される場合に疑陽性の場合が多いことは被告の主張するとおりであるが、本件NST1から本件NST3へと異常所見の頻度が増えており、所見が経時的に悪化していることも上記のとおりであって、これらの所見が疑陽性であるか否かを検討するため有効であるとされるBPPや体位変換など容易にすることができる検査などについてもO医師は行っておらず、単にNSTを繰り返すことの指示しかしていない上、本件NST3の記録に至ってはこれを確認することもしていないのであるから、NST所見の悪化の原因についてそもそも疑陽性との鑑別を含めその原因究明も急速遂娩が必要な事態の存否に関する判断もしていないと言わざるを得ず、急速遂娩に係る臨床実務上の判断以前の問題である。そして本件NST3の所見から急速遂娩を決定すべきであったことは上記のとおりであり、O医師にとってその判断が困難であった事情は見当たらない。従って被告の上記主張は採用できない。」と判示して過失を認めた。判決の指摘する本件NST3の所見とは基線細変動の消失を伴った遅発一過性徐脈のことである。
  ここまで読むと勝訴判決かと思いきや結果は請求棄却。
  裁判所が過失を認めた時点が6月18日午後8時32分、実際の娩出は翌6月19日午後3時18分(出生時のアプガースコアは3点)。19時間近くの前の時点で急速遂娩すべきとしながら、仮にその時点で急速遂娩していたとしても重度の後遺症を残さなかった高度の蓋然性があったとは言えないという論理である。既に6月18日午後8時32分の時点では胎児の出血は高度で中枢神経の不可逆的障害が生じていたから急速遂娩しても無駄という判断だ。
  原告は、もしそうならその後出血が持続しているのに何故19時間もの間子宮内胎児死亡を免れてアプガースコア3点で生児を得られたのか説明できないと主張したが、裁判所はこの疑問には何ら答えるところがない。鑑定結果を引用するのみだ。
  超音波で胎児の脳血流を測定していればある程度の推測は可能かもしれないがそれが行われていない限り、娩出から19時間前の時点で胎児が不可逆的な中枢神経障害を起こしていなかったことを医学的に証明することは不可能である。そんなことは鼻からできるはずのないことは明らかだ。不可能なことができないから因果関係なし、請求棄却というのが日本の医療裁判の現実である。19時間も前に娩出していたら後遺症の程度が遙かに軽く済んだであろうことは医学的証明以前の常識の問題だと思うが。
  証明可能なことが証明できないから敗訴というなら弁護士の力不足であろうが、絶対に証明できないことについて立証責任を負担させられて敗訴ではもう医療過誤裁判はやっても無駄だから辞めなさいと言うに等しい。
  かつて医療過誤裁判の主戦場は過失論であった。過失の立証に成功すれば因果関係の厳密な医学的証明ができない場合でも有責を前提とした和解による解決がなされていた。しかし最近は医療機関側で徹底的に因果関係を争ってむしろそこを主戦場にする傾向があるように思う。特に不作為の医療過誤でそれをやられると患者側としてはお手上げの状態になることが多い。実際にやっていないから過失なのだが、では実際にやるべきことをやっていたら結果が変わったかどうか医学的に証明しろと言われていも、やってもいない仮定の話について厳密な医学的証明などできるはずがない。
  医療過誤訴訟は冬の時代から氷河期に突入したように感じている。このままいくと勝訴の見込みありとして医療過誤訴訟を受任すること自体が詐欺行為になりかねない。

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