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2012年3月19日 (月)

氷河期に突入した医療過誤訴訟その3 裁判所が医療過誤訴訟だけに過酷なほど高い証明を要求するのは何故なのだろう

  訴訟上の因果関係の立証についてルンバ-ル最高裁判決は「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、事実と結果との間に高度の蓋然性を証明することであり、その判定は通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつそれで足りる」とする。この判例があるために因果関係の証明は「高度の蓋然性」の証明だとされている。
  しかし因果関係に限らず訴訟上の要証事実の証明については「裁判官が確からしいとの確信を得た状態を証明と言い、それは自然科学者の実験に基づく証明のように反証の余地のないほどである必要はなく、一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性があれば確信を得たと言える」とされている。あらゆる事実認定は「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性」があれば足りるのであって因果関係の証明だけが特別なわけではない。ただ因果関係の場合は単なる「事実」ではなく「事実と結果との関係性」が証明の対象であるために「事実と結果との間の高度の蓋然性」という言葉が用いられているだけと理解すべきだろう。私にはこの「高度の蓋然性」という言葉が「その判定は」以下の判旨と切り離されて一人歩きしているように感じられてならない。
  そして一般には「高度の蓋然性」があると認められるに足りる心証の程度は少なくとも80%以上であると確信することが必要と言われている。この点についても非常に疑問を持っている。そもそも心証の程度をこのように数量化することは可能なのだろうか。例えば夫の不貞の事実が要証事実の場合、①不貞の相手が不貞の事実を認めた録音テープがある場合、②女性と肩を組んでいる写真1枚と妻がもらった記憶のない指輪の領収書がある場合、③理由のはっきりしない外泊が数回あり、車の助手席に女性を乗せていたという目撃証言がある場合(他の証拠はないと仮定して)、それぞれ心証の程度は何%になるのだろうか。私は心証の程度を数値化することなど不可能だと思っている。
  ところがここでも80%という数字が一人歩きして、医療過誤訴訟にあっては統計上のある治療行為の効果の程度(例えば癌の5年生存率)がダイレクトに心証の程度に反映されなくてはならないような錯覚に陥ってしまっている。
  そもそも数値化できるほどの統計上のデータがある検査や治療行為などはごく一部に過ぎず、まして多施設における大規模なダブルブラインドテストに基づくデータなどは極めて限られる。しかもそれですら患者の個別事情を捨象したものだ。例えば70歳以上の肺炎患者が適切な抗生剤治療を受けないままに死亡した場合、適切な抗生剤治療が行われていれば80%以上の確率で救命できたことのデータを出せなければ因果関係は否定されるのだろうか。肺炎という極めてありふれた疾患で、抗生剤というこれまた極めてありふれた治療においてすら統計数字など存在しないのである。「70歳以上の高齢者の場合は誤嚥性肺炎が多く、その場合適切な時期に適切な抗生剤を投与したとしても救命が難しい場合は少なくない」というのが大方の内科臨床医の共通認識であろう。80%以上の確率で救命できたでしょうかと尋ねれば「そんなことはやってみなければ分かりません」というのが正解のはずだ。やってみなければ分からない場合に全て因果関係を否定するなら不作為型医療過誤で因果関係が肯定されることはほとんどなくなるだろう(現に無くなりつつあるのだが)。
  癌の5年生存率は一応のデータが出されているが、それでも癌の型、腫瘍径、腫瘍の数、リンパ節転移の有無・範囲、多臓器への転移の有無・範囲、患者の基礎疾患の有無・程度といった情報が確定できていれば当て嵌めうるというものに過ぎない。しかし実際の癌の見落としのケースでは検査すべき時期に検査が行われていないので過失とされる時点でのそのようなデータが存在しないケースがほとんどである。例えば乳癌の場合、腫瘍径とリンパ節転移の個数が予後を左右することになるが、過失時点での画像がなければ予後は確定不能、従って因果関係の立証はされていないので敗訴ということになる。その時点で画像検査をしなかったことが過失なのに、画像がないから因果関係の証明不能=敗訴では不条理にもほどがある。
  「高度の蓋然性」という言葉が80%などという心証の程度と結びつけられて一人歩きしている現状では、よほどの幸運に恵まれない限り因果関係の証明に成功することはないように思われる。
  セクハラ訴訟や離婚訴訟では本人の供述だけでも裁判所は「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性がある」と判断して事実認定をする。一般事件では本人の供述や「敢えて不利な契約を結ぶはずがない」といった経験則を当て嵌めただけのラフな事実認定がまかり通っている。それが悪いと言っているのではない。類型的に証明資料自体が乏しい訴訟にあってはむしろ必要なことだ。適切な検査が行われて検査データが存在し、患者の病態がきちんと把握されている場合にはそもそも医療過誤など起きない。杜撰な診療しかなされていない場合に医療過誤が起きるのであって、その場合には当然因果関係の証明資料は極めて不完全なものになる。その場合80%の救命可能性を医学的に証明することなど不可能である。ことに不作為の因果関係の場合には事実的因果関係とされるものは、実は歴史的事実の証明ではなく将来予測に過ぎないのであるから本来的に厳密さを求めうべくもないのである。
  医療過誤訴訟にあっては、具体的な状況の下で、臨床医学上有効性が認められている治療方法が存在する場合には、その治療が有効性を持たなかったことについての特段の事情が認められない限り、「一般人が通常疑いを差し挟まない程度に真実であることの蓋然性がある」と判断するべきである。これは証明負担の軽減でもなければ因果関係の推定でもない。そういうことを言うとわけ知り顔の学者や裁判官の反感を買うからそんな特別なことを言う必要はない。本来これがあるべき因果関係の認定である。実際最高裁を含めた判例を見てみると、特段統計資料や救命率に言及しないでいくつかの救命し得た事情を指摘するだけであっさり因果関係を認めているものは数多く存在する。一般事件で一つ一つの要証事実について80%の真実性に達しているかどうかを意識しながら事実認定をする裁判官などいないだろう。医療過誤訴訟でも同じことで、裁判所が「80%の救命率の証明」などという本来要求されてもいないドグマに拘泥しなければよいだけの話だ。
  裁判官は請求棄却の判決を書く前に、自分が弁護士だったらどんな立証をするだろう、そもそも本件で立証手段を入手する方法があるのだろうか、ないとしたらそれは誰のせいなのかを考えて欲しい。判決前に、法は不可能を強いないという格言を今一度思い起こして欲しい。

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