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カテゴリー「裁判員制度」の7件の記事

2011年4月16日 (土)

「裁判員」被災地免除へ、呼び出し中止検討  裁判員裁判自体を中止すべきだ

リンク: 「裁判員」被災地免除へ、呼び出し中止検討 (読売新聞) - Yahoo!ニュース.

 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島3県での裁判員裁判について、各裁判所は、津波で壊滅的被害を受けたり、東京電力福島第一原子力発電所の事故で多数の住民が避難を余儀なくされたりした市町村の裁判員候補者には、呼び出し状を送付しない方向で調整を始めた。
  各地裁では、前年秋に作成した裁判員候補者名簿から裁判ごとに50~80人程度の候補者をくじで選び、呼び出し状を郵送している。裁判に参加することで重大な不利益が生ずる場合は辞退が認められるため、被災地の候補者から申し出があれば辞退が認められるとみられるが、裁判員法には、一定の地域を呼び出しの対象からあらかじめ除外する手続きは定められていない。

  呼び出し中止は当然のことだと思うが、この際裁判員制度自体を中止すべきだ。従前は裁判官だけで刑事裁判を行ってきたのだから、裁判員などいてもいなくても何の支障もない。言わば盲腸のようなものだ。
  それなのに裁判員用法廷の新設・改築、裁判員の日当・旅費、呼び出し手続きの外部委託費用、広報費など膨大な国費が投じられている。平成23年度の裁判所の予算では42億4600万円が計上されている。法務省も約7億円(21年度のデータ)を計上している。市町村は裁判員用の保育費の無償化等の支援策をとっている。裁判所や検察庁職員の事務作業増大、弁護人の複数選任など間接的な費用を加えればさらに膨大になる。そして就業している裁判員の場合は、本来生産活動に充てられるはずの労働時間が失われるわけでマクロで見ればGDPにも影響していることになる。
  裁判員制度自体の是非はともかくとして、裁判員がいなくとも刑事裁判に何の支障もないことは間違いない。1年間中止するだけで裁判員関係の予算約50億円を被災者救済に廻すことができる。東日本大震災によってこれだけ多くの被害がでているにもかかわらず、裁判員裁判を行うのは無駄という他ない。そんな金があるなら被災者救済に用いるべきだ。
  理屈の問題としても被災地に限って呼出を中止することはできないはずだ。すなわち裁判所は、市町村の選挙管理委員会が調整した裁判員候補者予定者名簿に基づいて裁判員候補者名簿を調製する。第一回の公判期日が決まれば、裁判所はこの裁判員候補者名簿から「くじ」で裁判員候補者として呼び出す者を決めて呼び出さなければならない。「くじ」以外の選定手続きは存在しないし、予めくじ引きの対象から一定の範囲の裁判員候補者を除外することも許されていない。となる既に裁判員候補書名簿に登載されている被災地の候補者の呼出を中止することは法律上不可能ということになる。

  呼出中止するにも特別立法が必要ならばいっそのこと裁判員制度自体を1年間中止することにすればよい。元々最高裁も法務省も財務省も裁判員制度には乗り気ではなかったのだから、弁護士会が中止を提言すれば実現可能性はある。
  ところが司法改革信者やそれに迎合した転びバテレンの日弁連役職経験者は、大震災による被害を目の当たりにしながら、それでも裁判員裁判を継続すべきだと言う。彼らは裁判員制度にどれだけの税金が使われているのか分かっているのだろうか。自分たちが推進してきた制度なので何が何でも実施しなくてはならないという発想だろうが、東電と同じ官僚主義が弁護士会にも蔓延しているようだ。

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2010年12月30日 (木)

河北新報 今年8500人超が裁判員に 1421件、辞退52%

リンク: 河北新報 内外のニュース/今年8500人超が裁判員に 1421件、辞退52%.

  全国60地裁で今年実施された裁判員裁判は1421件(被告は1498人)で、8500人を超える有権者が裁判員を経験したことが29日、共同通信の集計で分かった。裁判員の辞退率(10月末現在の最高裁集計)は昨年をわずかに下回る51・8%だった。
 判決は無罪が2人で有罪率99・9%。3人に死刑が言い渡され、無期懲役は34人。弁護活動を批判する意見もあり、日弁連は「研修と試行錯誤を続ける」としている。
 共同通信の集計によると、今年の裁判員裁判は制度が施行された昨年の138件(被告は142人)の10倍を超え、多かった地裁は(1)千葉137件(2)東京130件(3)大阪115件(4)名古屋68件(5)さいたま66件―の順。
2010年12月29日水曜日

  市民の目を入れると職業裁判官だけの裁判より事実認定が適正化されて無罪が増えるというのが日弁連のもくろみだったように思うが、相変わらず有罪率は99・9%。量刑も全体的にやや重くなったようだ。8500人もの国民を動員し、膨大な国費を投じても結果が変わらなければ何の意味もないと思うが。
  それとも司法改革信者が呪文のように唱える「国民を統治客体から統治主体へ」「日本の法化社会化」という目的は達成されたことになるのだろうか。別に何も変わっていないように思うが。今の日本にこんな無駄な制度を維持する余裕があるとは思えない。 

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2010年9月17日 (金)

<押尾学被告>遺棄致死は認めず懲役2年6月の実刑 東京地裁判決

リンク: <押尾学被告>懲役2年6月の実刑 東京地裁判決 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース.

 合成麻薬MDMAを一緒に服用して容体が急変した女性を放置して死なせたとして、保護責任者遺棄致死など4罪に問われた元俳優、押尾学被告(32)の裁判員裁判で、東京地裁(山口裕之裁判長)は17日、懲役2年6月(求刑・懲役6年)の判決を言い渡した。
 押尾被告は09年8月2日、東京・六本木のマンションで知人の田中香織さん(当時30歳)にMDMAを渡した麻薬取締法違反(譲渡)と、容体が急変した田中さんを放置して死なせた保護責任者遺棄致死のほか、同じ日に別の合成麻薬を所持した同法違反(所持)、7月に知人からMDMA約10錠を譲り受けた同法違反(譲り受け)の4罪に問われた。
 検察側は「適切に救急搬送すれば9割方救命できた」とする救命医2人の証言などをもとに、容体急変時に119番していれば田中さんをほぼ確実に救命できたと指摘していた。
 これに対し、押尾被告は公判で「MDMAを田中さんに渡していない。人工呼吸や心臓マッサージなどの救命措置をした」と述べ、遺棄致死罪とMDMA譲渡の無罪を主張。弁護側も「田中さんは容体急変後にあっという間に亡くなり、119番しても救命可能性はきわめて低かった」と述べていた。【伊藤直孝】

  押尾被告は酷いやつだと思うし、直ぐに救急車を呼んでくれれば助かったのにという田中さんのご遺族の気持ちは当然だと思う。世間ではこの判決を批判するかもしれないが、私は保護責任者遺棄致死を認めなかったこの判決は妥当なものだと思う。同罪は保護責任者遺棄行為だけでは成立せず、その行為によって被害者が死亡したことが証明されなければ成立しない。つまり直ぐに救急搬送していれば救命できたという証明が必要だ。
  第6回公判で弁護側証人として出廷した救命救急医は、田中香織さんの救命の可能性について「極めて低い」と証言した。「本件で唯一確かなのは薬物の血中濃度」とし、田中さんのMDMAの濃度が異常に高かった点を指摘。証人の救急医は「田中さんの容体を分かっているのは押尾さんだけ。その押尾さんも薬物の影響下であいまい」とし、「唯一確かなのは薬物の血中濃度。血中濃度はうそをつかない」と断言した。死亡鑑定書や医師の調書によると、田中さんの薬物(MDMA)の血中濃度は8~13マイクログラム/グラム。この救急医によると、通常の中毒患者は1~2、致死量は3・1マイクログラム/グラムというデータもあり「田中さんの血中濃度で過去に助かった人はいません。救命の可能性は極めて低い」と証言した。同救急医は日本救急医学会で指導医を務めるかたわら、日本中毒学会の評議員でもある薬物中毒の専門家。検察側証人として出廷した救急医について「薬物中毒の専門ではない」とその証言を疑問視。「致死量の3倍以上のんだのに助かるというのは学問的にどうなのかと思った」と証言台に立った理由を説明したと報じられている。
  一方検察側証人の昭和大医学部(東京都品川区)の教授は、目を見開くなどの症状が出た同6時20分ごろに救急隊が接触すれば「約9割は助けることはできた」。病院内で心肺停止の一歩前になった場合は「被害者は若く、100%近い確率で救命できた」と証言し、また、都立墨東病院(墨田区)の医師も、心臓が機能している段階で救急搬送された場合は「9割以上救命できた」と証言したようだ。しかしこれは心肺蘇生の一般論としては正しいが、ショックの原因が薬物中毒の場合には血中濃度を下げる方法がない以上この一般論をそのまま当てはめることはできない。本件に即して言えば弁護側証人の証言の方が医学的に正しいと言わざるを得ない。検察側立証は詰めが甘かったと言うべきだろう。
 これらの証言から保護責任者遺棄致死は認められないだろうと思っていたが、裁判員裁判だけに果たして冷静な判断ができるのか危惧していた。押尾被告の悪質性や世論を考えると、複数の専門医が助かると言っているのだからということで有罪にされかねないと思っていたが杞憂だった。裁判員が合議でどのような発言をしたかはもちろん分からないが、困難な医学的判断が問題となる事件であっても裁判員は正しいな事実認定ができることが証明されたわけだ。私は国民に強制的に義務付け、被告人に選択権を認めないという制度設計については裁判員制度に懐疑的だったし今もそれは変わらない。ただ事実認定については職業裁判官だけよりむしろ裁判員制度の方がよいと思っていた。制度設計を変えれば裁判員制度は十分機能するように思う。
  もう一つ弁護側証人として出廷した医師は立派だと思う。押尾被告が保護責任者遺棄致死罪にならなければ当然世間やマスコミからのバッシングも予想される。証言して得になることなど何もないだろうによくぞ証言したものだ。こういう医師が増えてくれると民事の医療過誤訴訟も変わっていくと思うが。

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2010年5月13日 (木)

裁判員女性、遺体写真見て体調不良 裁判後に退職、福岡

リンク: asahi.com(朝日新聞社):裁判員女性、遺体写真見て体調不良 裁判後に退職、福岡 - 社会.

  福岡地裁で1月にあった傷害致死事件の裁判で裁判員だった福岡県内の女性が、朝日新聞の取材に応じ、「裁判を機に体調を崩し、仕事を辞めた」と語った。女性は、裁判で解剖写真が法廷に映されたときから動悸(どうき)が生じ、裁判後は車が運転できなくなったという。裁判当時、すでに別の裁判員が解任されていたため、体調不良を理由に辞めるとは言いにくい状況だったという。担当した裁判では、凶器が争点となった。被害者の頭に致命傷を負わせたのは「金づちのようなもの」とする検察側は審理2日目の午前、解剖医を尋問した。頭部の陥没骨折を説明するため、法廷のモニターと大画面に頭部の解剖写真が連続して映された。女性は当初体調に問題はなかったが、解剖写真を見ると動悸が生じた。それでも、「見なくてはならないと言い聞かせた」と振り返る。直後の昼休み、別の女性裁判員1人が解任された。裁判所からは明確な理由の説明はなかったが、女性にはこの裁判員も写真の影響があったように見えた。1人では廊下を歩けない様子で、昼食を取らずに帰ったという。女性も昼食は進まず、午後は「頭が真っ白で最悪の体調。倒れるかもと思った」。めまいや動悸が続いたが、すでに1人が辞めていた中で「自分まで帰るわけにはいかない」と考えたという。裁判を終えた翌日から、体調不良となり、車を運転することができなくなった。車での営業職を約4年間続けていたが、週4回ほどのパート勤務も2月中旬に退職した。
 最高裁は裁判員の心の負担に配慮し、24時間対応の相談窓口を設置。専門家のカウンセリングも受けられるようにした。女性も地裁からこの窓口を紹介されていたが、話すこと自体がきつく、なかなか電話はできなかったという。2月のある朝、即座に助言をもらえると思って意を決して電話した。涙ながらに話したが「私は看護師。専門の人に話しませんか」と言われ、気力を失って医師の診察は受けなかった。裁判の経験に悔いはないが、今も10分以上は運転できないという。
 遺体写真の扱いについて、福岡地検は「視覚的な説明が必要な場合もあり、影響には配慮している」と説明。福岡地裁は「裁判員が事後に体調不良などの問題があれば、いつでも相談に応じる」としている。
 西南学院大の平井佐和子准教授(刑事法)は「裁判では生々しい証言や写真が証拠として示されることもある。選任の段階であらかじめ説明し、事情によっては辞退を認めることも可能にするべきではないか」と指摘している。(金子元希)

  解剖写真は弁護士でも見たくないものだ。私などは小心者なので、ちらっと一度は見るものの、その後は解剖写真の部分を見なくていいように前後のページと一緒にクリップ止めしてしまう。そうすれば記録をめくっていても写真を目にしなくてすむ。このケースのように凶器と遺体損傷の整合性が争点となれば見ざるを得ないだろうが、鑑定書には写真とは別に傷の状況が詳細に図示されるのが通常なので、そちらをじっくり見る(こんなことでは弁護士失格か)。
  司法修習生は検察修習で必ず一度は遺体解剖に立ち会うのだが、頭部の解剖は強烈だ。私は正視できず退席してしまった。この裁判員は言われるままに頭部の解剖写真が映された大画面を律儀に見続けたのだろう。この手の画像は人によって受け止め方が全く異なる。全然平気という人も多いだろう。しかし一般の人に見ることを強要するような代物でないことは間違いない。
  国民のなかにはこの手の画像に極端に弱い者も当然いるのだから、事前に口頭で説明した上でそのような者には辞退を認めるのが当然だろう。福岡地裁は「裁判員が事後に体調不良などの問題があれば、いつでも相談に応じる」などと呑気なことを言っているが、既に見せられたショックが事後の相談で解消されるものではあるまい。裁判員制度など国民に犠牲を強いてまで敢えて続ける意味のある代物ではない。同じような被害者が出る前に裁判員制度などやめてしまうべきだ。

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2009年9月24日 (木)

東京新聞<記者だより>裁判員裁判

東京新聞<記者だより>裁判員裁判                        2009年9月21日 
 各地で始まった裁判員裁判。「裁判官が独占する裁判を国民の手に取り戻す」がウリだ。法曹、学者、ジャーナリストは「裁判の民主化」と、口々に賛辞を贈る。でも、問いたい。刑事裁判を、行政の官僚主導と同じ文脈で語ってよいのか、本当に裁判は民主的であるべきなのか。従来の裁判は、多数意見が優先される民主主義でなく、自由主義的であるがゆえに「あいつはクロ(シロ)」という世論の大合唱を無視して無罪(有罪)判決を出せる。国民が裁判権を握るべきは、刑事裁判でなく、行政責任を問う裁判の方だ。国民の反対を押し切って裁判員制度を始めたことは反民主的。ところが、裁判員制度絶賛派は「民主的制度を反民主的に」強制した矛盾について口を閉ざしたままだ。「知的な私たちが民主的にしてあげた」とのおごりが、万に一つもないと言い切れるか。裁判員制度見直し派が少なくない民主党政権に期待したい。(市川隆太)

  新聞がここまで正面から裁判員裁判に反対する記事を書くのは珍しい。記者もよく書いたと思うが、むしろそれを許したデスクの度量を褒めるべきか。裁判員裁判導入以来毎日のように新聞は報道しているが、どれも事実の報道と裁判員裁判がうまくいっているかどうかの簡単なコメントの域を超えていない。たしかに評価を下すには時期尚早なのであろうが、半年もたつとニュースバリューも薄れ結局できたものは仕方がないで終わってしまうのではなかろうか。
 河北新報は青森の強盗強姦事件について、性犯罪は裁判員制度になじまないから3年後の見直しの時期には適用除外とすべきとの記事を載せていた。まっとうな意見だと思うが、裁判員の苦悩や被害者保護の必要性を言うなら性犯罪に限ったことではあるまい。
 この事件は被告人が犯行を認めているのであるから、従来の裁判であれば被害者が公の場に出る必要は全くなかった。私も何度も性犯罪の事件の弁護を担当したが、被害者の尋問をしたことなど一度もない(少し前までは被害者の意見陳述という制度はなかった)。今回も果たして被害者の意見陳述が必要だったのだろうか。被害者の調書を弁護人が不同意にしたというならともかく、そうでないなら裁判員が調書を読めばよいことでなにもビデオリンクまで使って喋らせる必要などない(裁判員裁判であっても調書を証拠として採用することは当然できるし、法廷での調書の朗読は要旨で足りるので詳細な犯行状況の朗読は不要である)。調書が採用されてそれでもなお被害者が特に意見陳述を希望するならそれは自らの意思であるから被害者が精神的苦痛を受けるとしても致し方ない。しかし本件で本当に被害者が自らの意思で意見陳述を希望したのだろうか。
 また報道によれば犯行再現の生々しい写真を見せられたというがどんな写真なのだろう。私の経験では犯行再現写真はスーツ姿の男性が被害者役で、しかも断片的なもので生々しいものではなかった。今はいったいどんな再現写真を撮っているのだろうか。そもそも再現写真は実況見分の補助手段であってそれ自体が証拠になるものではなく、生々しいものである必要はない。被害者の意見陳述も、生々しい再現写真も、詳細な犯行状況の朗読も、全ては検察が求刑通りの判決を得るための裁判員向けのパフォーマンスだったのではないか。国民の良識を量刑に反映させることと、その場の感情で量刑を左右させることは同じではない。重罰に処すことだけが被害者保護だというならこのような立証のやり方も正当化されるのかもしれないが、そのために今後裁判員は凄惨な遺体の写真や犯行再現写真を強制的に見せられ続けるのだろうか。それほど多いわけではないが、それでも目を背けたくなるような、耳を塞ぎたくなるような凄惨な犯罪、醜い犯罪はある。裁判官、検察官、弁護士はそれが職責であるから我慢するしかないが、国民全員にそれを強いる必要性がどこにあるのだろうか。
 否認事件の事実認定に国民の常識的判断を生かすというなら話は分かる。ただその場合も国民には裁判員への選任を拒否する自由を与えるべきだし(その反面十分な審理を行うに必要な時間的拘束は課せられる)、被告人にも選択権が与えられなければならない。またアメリカの陪審制同様量刑に関与させるべきではない。しかし犯罪事実を認めている事件に裁判員を関与させることにどのような意味があるのか全く理解できない。
 裁判員・被害者の負担の問題や選択権の問題はしばらくおくとして、やはり裁判員制度の是非は、この記者が言うように刑事裁判の本質は民主主義なのか自由主義なのかという根源的な視点から語られるべきものであろう。その上でなおやるというならそれはそれで一つの選択かもしれない。しかし、「統治の客体から統治の主体へ」そのための「国民の司法参加」などという、全くわけの分からない空疎な理屈で推し進めることは誤りだ。できたものは仕方がないではなく、もう一度真剣な議論がなされるべきだし、マスコミもそのための報道をすべきだろう。記者は評論家になってはならないと言われているしそれはある意味そのとおりだが、論説委員ではない現場の記者が、取材した事実に基づいた一定の意見表明をすることはもっとあってよいように思う。

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2008年4月29日 (火)

裁判員制度に向けての研修

裁判員制度が来年5月から実施されることが決まり、それに向けて裁判員裁判に対応するための研修が各弁護士会で行われるようです。余り詳しくないので正確性に欠けるかもしれませんが、なんでも6名の弁護士がアメリカのどこかのロースクール?で研修受けて、その人達が今度は講師になって日弁連で研修会を開き、その研修を受けた人が単位会で研修を行うということのようです。こういう話を聞くと私のような頭の古い人間は「アメリカがなんぼのもんじゃ」とムッとしてしまいます。確かに素人の裁判員に分かるようにするには尋問の仕方も、弁論の仕方も工夫する必要はあると思いますが、被告人の話をよく聞いて、記録を精査し、証人尋問で矛盾点を明らかにするという刑事弁護の基本が変わるわけではないと思います。裁判員裁判では基本的に調書は排除されるので、証人尋問の重要性が高まり証人尋問の技術が要求されるのは事実でしょう。この点民事訴訟で証人の陳述書が広く活用されるようになってから主尋問の技術が落ちているのは確かなような気がします。主尋問では原則として誘導は許されないのですが、実際には陳述書に書いてあるということで民事ではこの原則が無きに等しくなっているようです。しかし主尋問でも誘導せずにきちんと必要なことを引き出すのは結構難しいのです。陳述書も実際には弁護士が作ることが多く証人がそのとおり言えるとは限りません。私は再主尋問はもとより主尋問でも重要な部分については誘導尋問の異議を出すようにしています。弁論も結局はどれだけ事案の中身が頭に入っているかということと、訴える熱意がどれだけあるかということに帰着するのであって、パフォーマンスの問題ではないと思います。アイコンタクトなどと言われるまでもなく本気で説得しようというときは誰でも相手の目を見るものです。一昨年の模擬裁で裁判員裁判を経験しましたが、公判前準備で裁判長から争点をもっと明らかにするよううるさく言われたことを除けば特段違和感を感じませんでした。主尋問では絶対に誘導しない、反対尋問では逆にハイかイイエでしか答えさせないという原則論を忘れなければわざわざ外国かぶれの講師に研修などしてもらう必要はないと思っています。そんなことに金をかけるくらいならバカ高い会費を下げてもらいたいものです。また好き勝手に書いてしまった、友達がどんどんいなくなってしまう。

2008年2月22日 (金)

酔狂ですが…:裁かれたくない /大分(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

リンク: 酔狂ですが…:裁かれたくない /大分(毎日新聞) - Yahoo!ニュース.

「年端もいかぬ素人に短時間で裁かれた日には、とても成仏できますまいよ。」
 これが市民感覚というものですね。裁判員制度についての世論調査はいくつか行われていますが、いずれも7割方は裁判員になりたくないという結果ですね。自分がなりたくないということはそんなもので裁かれたくない、つまり裁判員制度に反対だとみるべきでしょう。一般の方と話をしていても裁判員制度については不安の声をよく聞きます。それでも政府も日弁連も裁判員制度を何が何でも導入しようとしています。
 私も被告人が裁判員裁判と職業裁判官による裁判を選べる選択制をとり、かつ市民が裁判員になることを断れる制度であれば、それなりに意味のある制度だとは思います。自ら選択したのであればあきらめもつくし自己責任でしょう。また断れるのに自ら参加した以上は、裁判員に重い負担と守秘義務を負わせることも合理的でしょう。しかし今の制度は一定の重い事件は全て裁判員制度が強制される、市民は裁判員に選任されればそれを断ることはできず、重い責任と義務を負わされるのです。しかも被告人は3~5日という短時間で裁かれてしまうのです。いくら何でも問題点が多すぎると思います。
 ところで、弁護士人口激増政策については、それを望む国民の声があることすら実証されていません。少なくとも私は一般の市民の方から弁護士を増やすべきだという声を聞いたことはないし、仙台弁護士会にもそんな投書も電話もかかってきません。それでも国は強行し、日弁連も追随しています。逆に裁判員制度は国民がそんなものには参加したくないと意思表明しているのに強行されようとしています。何か変だと思いませんか。つまり国も日弁連も自分たちに都合が悪ければ国民の声など無視するし、国民が望んでいるかどうか分からないことでも、勝手に推し進めてしまうのです。
 彼らの言う「国民」という言葉に騙されてはいけません。いまだかつて、どんな悪法も政府が「国民のためになりませんが」と言って制定したためしはありません。どんなに悪い政策でもみな国民が望んでいるのだからとされて行われてきたのです。
 弁護士会、特に日弁連というところは「国民の声」とか「国民の理解」とかいうのが大好きです。だから「国民の声に反する」とか「国民の理解を得られない」とか言われると、途端に思考停止に陥ってひれ伏してしまいがちです。私はそういう方達を「国民教信者」と呼んでいます。「国民教信者」には理屈が通らないので困ったものです。
 また書きすぎてしまった。弁護士会から懲戒されるかも。
   

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